曾て龍土町に關といふバアがあつてよく通つたものだつた.当時は今と違つて六本木で飮むことがさう珍しくもなかつたので夜の海を泳ぎ廻つて最後に辿り着くのが關だつた.邊り一帯は毛利藩の縁の地でそれが親しみを抱く所以かもしれない.毛利の血を引く知己もその頃はゐたのである.

同業者相手の雑誌に以下のやうな一文を寄稿したことがある.

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六本木の喧噪の外れに佳いバーがある.關の扉一枚で通りと隔てられたカウンタアを覆つてゐるのは透徹した審美眼で,酒の調合に匠の技を発揮する主人の意図を正確に反映した結果がグラスに注がれる.そこには日常と非日常といふ対極にある時間が絶妙のバランスで融合してゐて,口に含めば意識が飛翔を始めて都会の夜にバツカスの化身が跳梁跋扈する.

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この7年後の2004年3月に關は店を閉めた.

その夜は都心での用事を思ひの他早い時刻に終へて何處で時間をたたせやうかと思案した挙句にクロ・ド・ミャンから祥瑞に移籍したスタツフの顔が頭を過つた.祥瑞を訪れるのは実に8年振りのことで星条旗通りから歩いてゆくと最初は店の場所を忘れてゐて通り過ぎ,もう一度引き返して漸く辿り着く.毅然とした,或は凛とした店構へといふのとは逆に開かれた感じの入口に立つた客は余計な緊張を強ひられることがない.獨りなのでカウンタアに席を定めて洋酒の瓶が雑然と竝べてあるのを眺めてゐると件のスタツフが現れた,銀座のクロ・ド・ミャンを訪れると大阪との交代勤務の筈なのに何故か毎回彼女が応對してくれた時期があつて次第に彼女のワインの薦め方のスタイルといふものがあることに氣付くことにもなつた.別に手の内を見透かすといふのでなくて,どうすれば旨いワインにありつけるかを經験則から學んだのである.クロ・ド・ミャンに限らず店でワインを所望すると複数のボトルを携へてスタツフがやつて来るのが普通でそこからワインの説明が始まるのであるが,いつの頃からか彼は最初に薦めてくれる1本を選ぶやうになつてゐた.そのときの料理や予算,或は連れの好みも含めた一切の状況設定の中で繰り出されるのは1本目が直球で2本目は曲玉であることが多い.確かに2本目は面白さうなワインなのであるが,人間は本當に言ひたい事を先ず述べるものである.それで彼はスタツフが2本乃至は3本のワインを持つて來ても最初に説明を始めるワインにするのが常だつた.

翌日の早朝に仕事を控へてゐたのでグラスのスパアクリングの後をボトルの赤に決めてゐた.さつと1本だけ飮んで歸るつもりでゐたのであるが2本の赤を携へた彼女が彼の傍らで始めた説明を聴いてゐるうちに生憎2本とも飮む氣になつた.少しだけ彼女に手伝つて貰ふつもりでゐたのである.料理は豚のロオストにしたが以前よりも旨くなつたやうに思へたのは料理人が交代したからだらうか.銀座にある祥瑞の姉妹店には入つたことがなくても肉の旨味を噛み締めてゐるうちに銀座の店にも行つてみなければといふ氣になる.結局長居をして2本の赤を空けて了つた彼はご機嫌で件のスタツフも僅かに頬を染めてゐる.或はさう見えただけだつただらうか.

店を出て星条旗通りに向かつて歩き出すと曾て關があつた場所は空家になつてゐて路面から一段高くなつてゐる店の入口に灯が点つてゐないのが不思議に感じられた.往路で同じ道を歩いてゐる時にはそこに店がないことが不在とも欠落とも感じられなかつたのに對して今はあるべきものがないといふ虚無が彼を捉へた.空間から時間の彼方に去つたバアカウンタアで飲んだ酒や過ごした時間が彼の脳裏に刻印されてゐて,關の主人と同じく2nd Radio出身で近くに店を構へる吉井君が凡そキレといふものが感じられない酒を調合するのに對して關で飮む一杯は凡庸・陳腐とは対極にあつた.酒といふもの,酒とともに過ごす時間といふものに真摯に向き會ふ主人の姿勢が關で過ごす時間を豊かなものにしてゐたのに違ひなくてそれは深夜にワインやシャムパンを飮んでゐても變はることはなかつた.確実にバアと呼べる店が確かに存在して今は闇に包まれてゐるのでもそのカウンタアで過ごした時間が現在の彼を彫り上げたに違ひなかつた.

祥瑞のカウンタアでワイングラスを傾けてゐる現在の時間が,グラスの中の緋色の液体が揺れるのを眺めて獨りで過ごした曾ての時間を意識に投射したのだつた.それはクリスマスツリイの電飾さながらに明滅を繰り返す.光と闇が交差する中に幾多の夜を過ごしたバアカウンタアが照らし出された.關はそこにあつた.今はない.