麻酔科医とは,麻酔を専門にしている医師のことです.麻酔を行うために必要な資格は,本邦では国家試験に合格した医師(または歯科医師)であること以外には規定されていません.したがって専門外の他科の医師が麻酔を行っても罰せられることはありません.しかし,「麻酔とは何か」で述べたように,麻酔には専門的な知識と技術が必要です.

麻酔科医は,日々麻酔に従事することで豊富な経験を積んでゆきます.外科医が手術件数を重ねてゆくことで上達してゆくのと同じです.勿論経験だけに頼っている訳にはゆきません.新しい知識を獲得すること,麻酔に必要な設備を常に整備された状態に維持すること,技術革新により麻酔の安全性を一層高めることを可能にした医療機器を備えることなどが必要です.このような臨床業務を着実に果たしてゆくことでそこに一人の酔のプロフェッショナルが誕生するのです.

手術室の運営に関与し,無理のない手術計画を立てることも麻酔科医の重要な役割です.本邦の麻酔科医は,一般的に過重労働の環境に置かれています.麻酔科医の肉体と精神が疲弊し,麻酔に必要な注意力や判断力が鈍ったその時に患者の生命は危機に曝されます.したがって,麻酔科医は自らの健康管理は勿論,個々の麻酔科医が過酷な労務を強いられることのないような,健全な診療体制を構築する能力も必要になります.

麻酔は全て麻酔科医が行うべきであるのは言を待たないのですが,日本では麻酔科医が不足しています.「麻酔科」という診療科名を掲げる(標榜する)ためには,麻酔科での臨床経験を2年以上積んで麻酔科標榜医という資格を取得しなければなりません.更に日本麻酔学会が認定する麻酔指導医になるには,5年以上の臨床経験を積んだ上で口頭試問や実地試験に合格しなければなりません.現在標榜医も含めて麻酔の専門医は約7,000人,うち指導医は3,000人余りです.国内で行われる手術件数に比較して,著しく少ない数です.したがって全ての麻酔を麻酔科医が行うことは不可能な状態です.

手の空いている外科医が片手間に麻酔を行っても普通は無事に終わるかもしれません.しかし,重篤な合併症が存在する場合や,術中に緊急事態が発生した場合などでは,対処を一歩誤ると直ちに患者の生命が脅かされます.このような場合,現に起きている事態を正確に把握し,その危険度を迅速に判断し,的確な処置を直ちに行う能力が必要になります.これらの能力は,麻酔を専門にしている麻酔科医には備わっていますが,片手間で麻酔を行う医師ではどうでしょうか.ましてや執刀する外科医が自身で麻酔を導入した後手術に没頭すれば,誰が生命の営みを支えてくれるのでしょうか.

麻酔と聞くとどうしても事故のことを思い浮かべる方が多いようです.朝日新聞に連載され,テレビドラマにもなった渡辺淳一の「麻酔」という小説も,麻酔の事故がテーマでした.この小説では,脊椎麻酔をうけた患者が呼吸停止によって低酸素脳症に陥る設定になっています.脊椎麻酔は,手技が比較的容易で特殊な道具も必要でないことから,特に本邦では広く行われています.小さな病院では執刀医が行うこともあるでしょう.しかし血圧低下や呼吸停止などが起こりやすいため,決して絶対安全な麻酔ではありません

全身麻酔でも事故は起こり得ます.筆者は,気管内に入れるべき人口呼吸用の管を誤って食道に挿入(食道挿管)したため,肺に酸素が送られずに低酸素脳症に陥った患者さんを実際に見たことがあります.この場合も麻酔科医以外の医師が麻酔を担当していました.食道挿管は通常であればすぐに気付かれて再度気管内挿管が行われますが,この症例の場合,食道挿管であることに気付かれるのが遅れたため,取り返しのつかない結果を招いたのです.

事故の発生件数は,全国的なきちんとした調査が行われていないので正確な数はわかりません.麻酔を専門にしている麻酔科医がいる病院での死亡事故は,4万人に1人という数字が挙げられることがあります.麻酔科医が麻酔を行えば100%安全という訳ではありません.しかしプロフェッショナルと素人では麻酔の安全性や快適さに格段の差があるのは事実です.麻酔科医がいない中小病院まで含めると,この数字は遥かに大きくなる筈です.

あなたが手術をうける病院には麻酔科がありますか?麻酔科があれば,全身麻酔が麻酔科医不在で行われることは先ずないでしょう.しかし,麻酔科がなければ,院外から非常勤の麻酔科医が応援に来るか,外科医が片手間で麻酔を行うかの何れかです.麻酔科医が麻酔を行う場合,手術に先だって麻酔科医が術前診察を行います.このときに麻酔についての説明もする筈です.麻酔科医があなたの許へ訪れることがなければ,麻酔は他科の医師が行うかもしれません.手術の前に主治医(外科医)に誰が麻酔を行うのか尋ねてみて下さい.「麻酔を誰がかけるかって?大丈夫だよ,そんなこと心配しなくたって」という答が返って来れば,麻酔科医が担当することはないでしょう.麻酔を軽くみる医師は麻酔の重要性や危険性を十分認識してはいません.手術の腕も推して知るべしです.全身麻酔や脊椎麻酔をかけるのが麻酔科医でなかったら,私ならその病院で自分や家族が手術をうけるのを止めます.

病院における診療の質の評価が第三者機関によって行われるようになって来ています.今後は患者自身も麻酔についての正しい知識を持ち,病院の質を評価し,病院を選択する時代になります.一定の手術件数を有しながら麻酔科医のいない病院は,安全な麻酔管理を心がけているとはみなされません.麻酔は必ず麻酔科医が行うような医療環境を実現させたいと考えます.

麻酔科医は,あなたに安心して麻酔をうけていただけるように,今日も研鑽を積んでいます.麻酔科医は,麻酔のプロフェッショナルです.

アメリカ合衆国の労働省は麻酔科医という職業を以下の表現で規定しています.

70.101-010 ANESTHESIOLOGIST (medical ser.)

Administers anesthetics to render patients insensible to pain during surgical, obstetrical, and other medical procedures: Examines patient to determine degree of surgical risk, and type of anesthetic and sedation to administer, and discusses findings with medical practitioner concerned with case. Positions patient on operating table and administers local, intravenous, spinal, caudal, or other anesthetic according to prescribed medical standards. Institutes remedial measures to counteract adverse reactions or complications. Records type and amount of anesthetic and sedation administered and condition of patient before, during, and after anesthesia. May instruct medical students and other personnel in characteristics and methods of administering various types of anesthetics, signs and symptoms of reactions and complications, and emergency measures to employ.