●医学を変えた発見の物語 諏訪邦夫訳 中外医学社 ISBN4-498-00958-4

ベストセラーと呼ばれる本は一般につまらない.たまたま話題になった社会現象を扱ったものや,どうでもいい健康法を記した本が妙に売れることは確かにある.しかし,例えば出版されてから10年後にも輝きを失わないような文章はそこにはなくて,小説にしても大勢の人間が短期間によってたかって読み始めるなどという代物は,売り上げが内容よりも宣伝に依っているところが大きいと考えることが許される.ベストセラーの全てを駄作と断ずる訳では勿論ないが,そこに珠玉の知性を見出すことは稀と言っていい.

むしろロングセラーの本に良書が多い.歳月という流れに洗われてもなお,いやむしろそれ故に豊穣な知性を湛えて読む度に異なる魅力を発見する.そういう文書に触れたとき我々は本を読んでいる自身を意識する.そして独りになっていい酒を飲んでいるのと同じ時間の経たせ方をすることができる.

本書は1984年に上梓された.以後順調に版を重ねて来たが,今回,新訳として新たな意匠を纏った.1985年に麻酔科医となった筆者は,緊急手術の麻酔を終えた後で当直室のベッドの上で本書を貪るように読んだ記憶がある.長時間の麻酔で疲れている筈なのに,その内容と一体になった語り口の妙に魅せられて一気に読破してしまったのである.

医学書の多くは無機質な知識の羅列に過ぎない.人間の肉体を扱っているにもかかわらず,そこには著者という人間の姿は見えないのである.客観的な事実を記載しようとする余り,書き手の感動などという余計な要素は努めて排除されていて無味乾燥この上ない.従って読んでいて直ぐ眠くなる.結局退屈な読み物なのである.医学書に較べると,物理や数学の分野における傑物の著書は格段に読んでいて楽しい.

ここまで書いてふと思い当たる.医学書も本当に優れた,歴史を自ら築いていったような人物の著書はやはり面白いのである.そこには真理を探究してゆく著者の姿が投影されていて,読んでいる我々が著者という人間の存在を忘れることはない.つまり医師が臨床の必要に迫られて読む医学書の多くは,出来損ないのハウツー本,すなわちマニュアルに過ぎないのである.従って如何に多くの類似のものを読もうとも,医師としての魂を伝承するものではない.本だけから得た知識はもはや知識と呼べるかどうかも疑わしい.それは死んでいるのである.

本書は違う.これは知識や技術をマニュアルにした二流の読み物とは異なる.ここに記されているのは医学史上の重要な発見の経緯なのだが,それがそのまま重要な発見をした人間を記述した文章になっていて読む者に親しみを抱かせる.政治や経済の歴史が人間を動かして来たように,医学も人間の作ったものでありながら必然と偶然の狭間で人間を翻弄する.大発見を成し遂げた人物も幼少の時期を過ごし,他の者と同じような服を着て何秒かに1度は呼吸しているのである.この本を読んでいると彼らの息遣いに触れるような不思議な錯覚に陥るがよく考えてみるとこれは古今東西の名著に共通した性格であり,人間を描いて間断するところがない.原著に当たったことがないので確かではないが,この躍動する文体は,著者の筆致の瑞々しさに加えて,訳者たる諏訪氏の恐らくは相当に練り上げた言い回しによるので言葉が言葉を選ぶ境地がそこに拡がっている.諏訪氏にとって原文の訳はこの本の頁毎に配置された言葉以外ではあり得ない筈である.そこに費やされた労力と時間は,言葉の完成された姿からは意識する必要がなくてもしそれらが垣間見られるようならそれは出来損ないの文章である.幸い我々が手にとって読むこの本にはそういうことを思わせるものはなくて我々はこの本を読んでいてただ本を読んでいる状態に置かれる.それは幸せということでもある.


●患者はこうして殺される 浅山 健著 飛鳥新社 ISBN4-87031-347-2

乞うご期待...