
これぞ麻酔科医の御用達とも言うべきマニアックな逸品である.何しろ麻酔科医,手術室の看護婦などの限られた人間以外は手にするどころか,恐らく一生お目にかかることはないだろうという幻の道具,それが吸入麻酔薬の注入器だ.
吸入麻酔薬とは気体の麻酔薬のことだが,これらの中には液体として販売されているものがある.現在ボンベで売られているのは笑気(実際に笑い出す訳ではない.化学式はN2Oで,地球温暖化の原因の一つとされるが,医療用として使用されるのは工業用に比較すると著しく僅かな量である)だけで,セボフルランやイソフルランという名前の麻酔薬では,液体の入った瓶から気化器(液体の麻酔薬を気化させるモノ)に麻酔薬を注入しなければならない.この際,ちょっとこぼれたりするのであるが,こぼれた液体は直ちに気化し,注入している麻酔科医に麻酔作用を及ぼすことになる.
そもそも麻酔薬を瓶から気化器に注入するなどという行為は,患者の状態が不安定で麻酔科医がてきぱきと働いているときにするものではない.術者がいつもと違って妙に巧く手術をやっているので出血も少なく患者の容態も極めて落ち着いている,というような時こそ麻酔薬を気化器に注入するのに適している.早く言えば,暇な時間である.前日が当直だったりすると,暇になると直ちに眠くなるのであるが,気化した麻酔薬を吸い込むともう駄目だ.規則正しい心拍同期音が一層眠気を誘う.かくして患者を眠らせている麻酔科医は,自らも睡魔の誘惑に耐えきれず,こくりこくりとやり出すのであった...
従って,患者の安全のためには気化器に注入するときにこぼれる麻酔薬が少ないほどよろしい.注入器にもいろいろあるが,写真に示したものは金属製で,麻酔薬が殆どこぼれない優れモノである.プラスチック製のものもあるのだが,ふとした拍子に何mlかを無駄にするのが嫌ならば金属製に限る.左側の細い管が瓶の中に入り,一番太い部分が瓶の蓋のようになっている.右側の穴が二つ空いている部分が気化器に装着するところで,大きい方の穴から麻酔薬が気化器に注入される仕組みになっている.つまり左から右に麻酔薬が流れてゆくのである.気化器に入った麻酔薬はそこで気化し,麻酔回路を通じて患者の肺に入り,その後血液に溶け込んで脳に達して麻酔作用を発現する.麻酔薬の長い旅の始まり,それがこの注入器なのである.